雑踏と騒音の中、俺は目を覚ました。
目覚めたばかりの体は重く、ただひたすらにけだるい。
未だ寝惚けているのか、上手く働かない脳を目覚めさせる為、
頭を2、3度小突くと、俺は漸く自分が何処に居るのかを理解した。

「寒い……」
脳が動き出すと同時に、体に感覚が戻る。
季節の上では今は秋。まだ冬には至らない筈だが、
時折吹く木枯らしや、舞い落ちる木の葉は、確実に冬の訪れが近い事を示している。
ましてや、公園のベンチの上という野晒しの場所で、
毛布もかけずに野宿していたとなれば、風邪を引いていても可笑しくは無かった。
(まぁ、この程度の寒さなら、何度も経験しているからな……)
この程度の寒さなら耐え凌げる。
困るのは本格的に寒くなる、十二月以降だ。
流石に凍死しかねない。そう考えただけでぞっとする。
その為にも、今のうちに金を溜めておかなければならないのだ。

(その為には、野宿も我慢…か)
そこで思考を絶ち、俺は上半身を起こす。
今まで空を見ていた視線が、ビルや人間といった光景に変わる。
空の広さに比べ、地面とはなんと狭いんだろうか。
だが、それは今の俺には一先ず関係の無い事だった。
とりあえず、金なのだ。
迫り来る冬に備え、ひたすら稼がなければならない。
(…アリとキリギリス……)
だが、キリギリスは居なかった。

「…………」
俺は今日何回目か、空を仰ぎ見た。
一寸考えれば、ビジネス街で人形芸を見せたところで、
誰も何の関心も示さないであろう事は至極明瞭だった。
俺はポケットの中を探ってみる。
ジャラジャラと、小銭のぶつかり合う心地よい音が響く。
「……100円が4枚、10円が11枚………」
止めた。
俺は小銭をポケットに戻し、灰色の地面から目を離す。
そして、また空を仰ぎ見た。
秋ならではの鰯雲がゆっくりと流れて行くのが見えた。

……そもそも、この町にどうやって流れて来たのかすら覚えていない。
電車に乗り、バスを乗り継ぎ、
時にはただひたすら歩き、気が付いたらこの町にいた。
考えてみれば、いつもこんな調子だったのかもしれない。
別に、行きたい場所があって観光旅行をしているわけではないのだから。
この町が日本の何処に位置しているのかなんて、別に知りたいと思った事も無い。
今までもそうだった。そしてこれからもそうなのだろう。
旅先で思い出を作りすぎると、どうしてもその場所に愛着が沸いてしまう。
結果、それはその場所から旅立つ妨げになるし、
必要以上の思い入れというのは、旅をして行くうえで邪魔になってゆく。
少なくとも俺は、そう思っていた。
あの町に、辿り着くまでは。

「………」
100円玉が1枚増えた程度では、ポケットにかかる重みなど全く変わり無かった。
結局俺は、重い足取りでいつもの公園に戻り、いつものベンチに腰を下ろす。
「……あー…」
632円。
これが俺の全財産である。
まるで子供の小遣いのようだ。
これでは冬の為に金を溜めるどころじゃない。
その前に飢え死にしかねなかった。
先のことより、今のことだった。
「コンビニで弁当でも買うか……」
全く持って侘しい食生活である。
「どっこらせ」
我ながらオヤジ臭い台詞を吐くもんだ、と思いつつベンチから腰を上げたその時…

ぱちんっ。
「ん?」
頬に何か液体がかかった。
「…………石鹸水……?」
ふと、視線を下に落としてみる。
すると、そこには……
「……みちる…?」
「んに?おじさん、どうしてみちるの名前知ってるの?」
「……せめてお兄さんと呼べ」
その言葉を聞いていたかどうかは定かではないが、
みちるは再びシャボン玉を膨らまし始めた。
それを見ながら、俺は思い出す。
(そうか……美凪の父親はこの町に居るのか…)
そう考えると、俺の移動距離も大した事無いな。
何故だか分からんが、笑いがこみ上げた。
「く、くっくっくっ…」
そんな俺を見て、みちるは何を勘違いしたのか、
「むーっ!みちるがシャボン玉上手くできないからって笑ったなぁ!」
どげしっ!
「ぐおっ」
いい蹴りがみぞおちにヒットした。
初対面の相手でも遠慮が無い。
「いてぇ……」
痛烈な痛みに、俺は悶え苦しむ。
そこに、さっ、と紙コップが差し出された。
「……これを飲めと?」
「んなわけあるかっ」
ばごっ。

「おうっ」
2発目。
「おじさんがみちるを馬鹿にするなら…」
「…ならお前がやってみろ……という事か」
俺はみちるの手から石鹸水の入った紙コップを受け取る。
「……よし、俺の実力に驚愕しろ」
我ながらカッコイイ台詞だ。
ストローを石鹸水につけ、それを優しく吹く。
何と単純で簡単な作業であろうか。
失敗するわけが無い。
ちょんちょん。
ストローを石鹸水に浸す。
そしてそれを吹……
ぱちん。
一瞬薄い膜ができ、そしてその刹那割れた。
要するに、失敗である。
「ぐわあーっ!目に入ったぁー!」
これがまた痛い。
「へへ〜ん、ざま〜みろ」
畜生……
「……」
ぱしっ。
「あ」
自分が成功したわけでもないのに得意げな顔をしているみちるの手から紙コップを奪う。
「何すんだ〜っ!」
「リベンジだ」
絶対、膨らませてやる。

………
燃え尽きた馬鹿がふたり。
その上を、烏がカーカーと鳴きながら飛んでゆく。
秋の日は短い。
早くも町は、夜の色に変わろうとしていた。
「……なあ」
石鹸水で顔面テカテカになった俺が呟く。
「…なによぅ」
石鹸水で顔面テカテカになったみちるが答える。
「お前には何処かで会った気がするんだが」
ある意味、禁句とも言える質問だった。
だけど俺は、どうしてもその質問をしてみたいという衝動に負けた。
「んー……会ってない……と、思う」
みちるは、一言一言、何かを思い出すように言葉を発する。
「でも……おじさん、なんか懐かしい感じがする」
「そう…か」
それだけで、俺にとって充分だった。
「さてと、子供はそろそろ帰れ」
「むっ!そのいい方むかつくっ!」
「ヘイへイ、悪う御座いましたぁ〜」
がすっ。

「がはぁ……」
「ふんだ!言われなくても帰るよーだ!」
そう言うとみちるは、中身の無い紙コップを持ち、立ちあがった。
「…そうだ」
みちるが俺のほうを向く。
「おじさん、名前は?」
「ピエール・ゴルバチョフ4世」
我ながら出鱈目な名前だ。
がきょっ。
「ぬぐぅ…」
「嘘付くなーっ!」
俺は一息つき、こう言う。
「名前は秘密だ。いつかまた出会ったら、その時に、な」
「むぅー……」
みちるは納得のいかなそうな表情だったが、
「ま、いっか」
ぱっ、と表情を変えると、たったっ、と元気良く走り去って行った。
そして、公園の出口でもう一度振りかえり、
「じゃあね〜」
と、手を振りながら言った。
「ああ……じゃあな」
俺は、恐らく俺以外の誰にも聞こえないであろう程小さな声で、そう答えた。
(元気でな…)
そして、そう心の中で呟くと、俺はもう1度空を見上げた。
空は完全に暗くなっていて、そこには星がいくつか見えた。

俺は道を歩いていた。
国道か、それに近い規模の幹線道路だろう。
大型トレーラーが騒音を巻き起こしながら、俺を追いぬいてゆく。
バス停もあるし、もう少し行けば駅もある。
だけど、今日は1日中歩いていたい気分だった。
もうすぐ季節は冬へと変わる。
日を追うごとに、風が冷たくなる。
勿論のこと、金は殆ど無い。
ただ、それでも大丈夫だと言う、良く分からない自信があった。
……何時間歩いただろうか。
俺もさすがにそろそろ休みたい気分になった。
ただ残念な事に、周囲には座るのに適しているものが何も無かった。
仕方が無いので、俺はその場で腰に手を当て、伸びをする。
「くぅ〜っ……疲れた」
背筋を思いっきり伸ばした俺の目に、空が映った。
雲一つ無い青空だ。
(約束……守らなくちゃな)
今の俺には、どうすればそれを叶える事が出来るのか、未だ分からない。
だけど、無限に広がる青空を見ていると、今すぐにでもそこに行けそうな気がした。
どこまでも、どこまでも高みへ。
俺はその場所を目指す。
今、目を閉じたら、そこへ行けるのではないか。
そんな漠然とした予感が、俺を包む。
行けるわけねーだろ。
そんな予感も、俺を包む。
勝手な期待だと分かってはいた。
でも……
俺は目を閉じてみた。
どこまでも続く、無限の高み。
あの空の、遥か向こうを目指して。



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